顔のない男 脚本
モノローグ
「その男は突然私の家にやってきた。そしてリビングのテーブルに座った。その男には顔がなかった。といっても、首から上が存在しないという意味ではない。顔は間違いなく首と繋がっていた」
ブラック。字幕
{それは主張せず}
{それでいて}
{堂々と首の上にあった}
モノローグ
「私は確かにその時、男の顔を眺めていた。だが今、顔全体を思い浮かべようとすると、途端に記憶はピントがずれたレンズ越しのようにぼやけてしまう」
ブラック。字幕
{そうしてその男は顔をなくした}
字幕
{僕は愛を知らないのです}
モノローグ
「と顔のない男は言った。唐突に、抑揚のない声で」
字幕
{僕は愛というものが一体何なのか分からないのです。答えがあるなら教えてくれませんか?}
台詞
「答えはないし形もない。だからそれを明確に定義することはできない」
モノローグ
「と私は答えた。すると男は言った」
字幕
{人間は愛を尊びます。それは答えを知っているからなのでしょう}
モノローグ
「その時、男は瞬きを一回もしていなかった。その目は何の感情も含まず、ただ見開いていた」
台詞
「答えを知っているから大事にしているわけじゃない。漠然としたものや理由がないものにも人の心は反応する。それは理屈じゃないんだ」
モノローグ
「男はふと笑みを浮かべたように見えた。でも実際は無表情だった」
ブラック。字幕。
{笑みにも似た無表情}
{音の無い音楽}
字幕
{心、ですか。つまり愛を知らない僕には心がない、そうとも言えるわけですね?}
台詞
「心がない人間など存在しない」
モノローグ
「私はそう言ったが、その男を目の前にしていると、ひどく自信がなかった。不安が胸の奥でじわりと広がっていくのを感じた」
台詞
「心があるから人は人でいられる」
モノローグ
「まるで自分に言い聞かせるように私は言った」
字幕
{本当にそうでしょうか?その言葉はよくある定説を鵜呑みにしているように僕には聞こえます。その証拠にあなたの声は震えている。まるで怖い夢から覚めた子供のようだ}
台詞
「心がなければ、愛がなければ、それは機械だ。人間とは言えない」
モノローグ
「腋から一滴の汗が腰まで直線的に垂れていくのを感じた。それは冷たくひどく粘着質だった」
字幕
{あなたはなぜ僕に怯えているのですか?愛を知らない。心がどこにあるかも分からない。でも僕はれっきとした人間です}
モノローグ
「その響きには憐れみも蔑みも、温度も雰囲気もなかった。この男は本当に愛を知らない。私の直観がそう告げた」
台詞
「君が言っていることは真実なんだろう。君は確かに愛を知らないようだ」
字幕
{そのとおりです。だから教えてほしいのです}
台詞
「私には教えることはできない」
字幕
{なぜですか?}
台詞
「さっきも言ったが愛に定義はないからだ」
字幕
{ならばなぜ人は愛を尊ぶのですか?定義できないものをどうして信じられるのですか?}
台詞
「定義の問題じゃない。理解も必要ない。この世界に愛はある。それが事実だ」
字幕
{あなたにはあると?}
モノローグ
「そう聞かれて、私は自分が切り立った崖に立っていることに気付いた」
台詞
「ある、と思う」
字幕
{曖昧な物言いですね。断言しないのは適切です。なにせあなたが立っているのは崖」
ブラック。字幕
{微風ですら凶器になる}
台詞
「君はもしかして私が答えられないのを知ってて私に質問してるんじゃないか?」
字幕
「おっしゃるとおりです。あなたには答えられない」
台詞
「君は私に何を求めているんだ?」
字幕
「あなたは愛が何であるか、感覚的に知っているかもしれない。でも答えられない。僕はあなたに知ってほしいのです。あなたが立っている場所を」
モノローグ
「私は今崖に立っている。確かにそうだった。ほんの少しバランスを崩しただけで私は落ちて死ぬ。いつからここに立っていたのだろうか。この男と会った時からか?いや、違う。きっと私は生まれた時からここに立っている。ただ気付かなかっただけだ」
台詞
「今気付いたよ。私はずっとここに立っている」
字幕
「くれぐれも忘れないでください。やさしいそよ風ですらあなたを殺します。でもそこに立っていることは決して理不尽でも不幸でもありません」
モノローグ
「私はその時、はっきりと分かった」
ブラック。字幕
「それが愛だ」
モノローグ
「男は立ち上がり、空気中の何かを見据えたまま、言葉なく私の前から姿を消した。まるで蜃気楼に溶け込んでいくように。最後の瞬間、顔のない男は確かに笑っていた。私は空を見た。太陽は高い場所で地球を照らしていた。それに応えるかのように大地がゆっくりと回っているのを私は体感した。理屈ではなく、そう感じた」
完